球磨神楽は、熊本県人吉市及び球磨郡内各町村の神社祭礼で奉納される神楽で、直面の舞手が鈴や御幣、剣などを手に持って舞う採物舞を主体とする。回って回り返す所作を基本とし、足拍子を軽快に踏み、複数の舞手による演目では隊形を様々に変えて舞います。
平成25年3月12日に、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
球磨神楽が伝承されるのは人吉市と球磨郡四町五村で、熊本県南東部、宮崎・鹿児島両県に接し、九州中央山地の脊梁をなす山々と、球磨川水系が作り出した平地によってなる地域です。
神楽伝承の中心である人吉市の青井阿蘇神社は、9世紀初頭に熊本県阿蘇市に所在する阿蘇神社の分霊を勧請したと伝えられますが、12世紀の終わり、相良氏が遠江国から人吉庄に入り、やがて地頭となって以降、阿蘇神社との実質的な関係は途絶えたとされます。
人吉・球磨地方は中世以降、一貫して相良氏が領主として存続した地域で、青井阿蘇神社は同氏の篤い信仰を得て、同地方の神社の束ねとして位置づけられ独自の宗教的展開を図っていました。このことが、この地方に独自の特色を持つ神楽が発展したことの背景にあると考えられています。
人吉・球磨地方の神楽に関しては、相良氏の年代記である『歴代私鑑』に、相良12代為続が文明4年(1472年)、雨乞祈願のため青井宮に神楽を奏させたとあるのが初出とされます。
さらに、天文9年(1540年)の疫病流行の際には、青井社に数百番の神楽をさせたとあるほか、雨乞や悪鬼退散、病気平癒、諸願成就など、祈願の神楽がたびたび奉納されたことが諸記録に残っています。また、現在の球磨神楽に直接結びつく史料としては、安永4年(1775年)をはじめとする四冊の『神楽書』が残されています。
現在、球磨神楽は、10月8日の青井阿蘇神社祭礼の宵宮での奉納を皮切りに、人吉市及び球磨郡内各町村の神社祭礼で舞われ、多良木天満宮祭礼では10月24日に、最終は12月15日に水上村の市房山神宮祭礼でその年の神楽奉納を締めくくります。
かつては、各神社の神職だけが神楽を演じました。神楽が奉納される神社の神職を中心に、近隣の神職が集まって演じたので、球磨川の上流域、中流域、下流域で微妙な所作の違いが生じ、それが各地域の特色ともなりました。
大正頃より演じ手が不足するようになり、氏子にも神楽を教えるようになったといい、昭和初期以降、祭礼での神楽奉納に正式に氏子も参加するようになりました。さらに、昭和37年には神職と氏子からなる、球磨神楽保存会が結成されて現在に至っています。
球磨神楽は各神社の拝殿で演じられます。ただし、青井阿蘇神社には18世紀中頃の創建とされる神楽殿があり、ここで神楽は奉納されます。天井の中央から四隅及び四辺に注連縄が張られ、シデ飾りがつけられます。
さらに、太陽と月を象ったとされる円形の作り物と、雪舟という楕円形の籠状の物が吊されて、「三笠」という演目では二人の舞手が作り物に結ばれた綱をそれぞれ持って絡ませながら舞うほか、控えの者が雪舟を揺らして中に仕込まれた紙吹雪を散らします。これらの飾りをヤツジメと称します。ヤツジメを飾るのは、今は青井阿蘇神社だけであり、「三笠」もここでしか演じられません。青井阿蘇神社以外の各社では拝殿で神楽を舞います。
人吉・球磨地方の神社社殿は、覆屋の中に建つ本殿と拝殿・神供所が鍵の手に並ぶ独特の形式で、拝殿は縦長です。拝殿の本殿に近い部分を舞処とし、本殿に向かって神楽を奉納します。
日本遺産「相良700年が生んだ保守と進取の文化 ~ 日本でもっとも豊かな隠れ里― 人吉球磨 ~」の構成文化財の一つとなっています。
保護団体名:球磨神楽保存会